バベルの塔、言葉が通じないからこそ分かり合えるもの。
イタリアの農場体験
ミラノ郊外に少し出れば、それはもう田園風景だ。
農業大国のイタリアでは普通の風景。
とある農場でチーズ作りの体験、ランチ付き。
もちろん、言葉は通じない。通じないというと語弊があるかな。
説明をくださる方も、身振り手振りで対応してくれるので
ある意味では通じている。とも言える。
その通じる具合がとてもよかったりする。
身振り手振りも含めて、とてもシンプルだけど大事なことだけ
伝わって来る。
「見てろ」「真似てやってみろ」「触ってみろ」「やってみろ」「食べてみろ」「うまいだろ?」「作ってみろ」「食べ物に感謝しろ」
以上だ。
初対面の人たちが、お互いに理解できるキーワードの数なんてたかが知れている。
だからこそ、シンプルであること。そしてお互いに理解しようと努力すること。
がとても大事なんだなと気付かされた。
言葉が通じるがゆえに、複雑になったり、そもそも理解をしようとする努力を怠りがちになったりするってことか。
もしかすると、人間ってものすごく深いところで理解し合う必要って実はなくて、
表層的なお付き合いの中にこそ、分かり合えるものがたくさんあるんじゃなかろうかと思った。
日本にいると、表層的なお付き合いって、悪い意味で使われがちだけど。
言語が異なることで、改めてお互いにリスペクトが持てていると考えると、なんだかとても素敵なことに思えてならない。
これだけ言語が多様にある世界に暮らしているけれど、それらが一つの星に存在していられるのは、それぞれ異なる言語があるからなんじゃないかと思った次第である。
バベルの塔では、怒った神様によって、異なる言語を話すことになった。とあるけれど、本当の目的は、よりお互いに理解し合うための事だったのかもしれない。